ふつうに話せるといいよね「死」について

5月21日はデスデザイン・カフェでした。

通常は問いを用意し

それぞれの考えをシェアする形が多いのですが

先日は 少人数。

それぞれシェアしていことを自由に話してもらい

深い話になりました。

*次回は 6月25日13:30〜です。

「死」はネガティブ最上級

わたし自身は いつからか「死」についての話をすることに抵抗がなく

特に看取り士養成講座をしていた時は

毎日「幸せな死」「幸せな看取り」に関することばかり考え

仲間と話していたため

世の中ではまだまだ

死の話はタブーであることを忘れてしまいます。
(それで驚かれたり 声が大きい! と言われたり 笑)

 

世の中の中心の考えは

「死」はおどろおどろしく ネガティブ最上級。

そこまでいかなくても 近いものがありますよね。

  • 死ぬよりまし
    とか
  • 死んだほうがまし
    とか

いうことばにその考えが表れています。

 

バーチャルで痛みのない死には百万倍触れている

感情が揺らされる

一人称の生身の死に触れることはほとんど無く

日本人の約8割の人が亡くなっている病院では

だれも死んだ人はいないかのように

死は 隠されています。

 

そして

テレビやネット、ゲームでは

バーチャルな

他人事の

痛みの伴わない死が氾濫しています。

このような環境では

死生観がコントロールされているとも言えるのではないでしょうか?

 

「死」は怖れるものではなく どう生きるのか?ということ

自宅で産まれ

自宅で死んでいっていた時代とは

全く 別の死生観になっていてもしょうがない環境であること。

そのことに 気づいていない人は多いです。

 

だから 立ち止まって

だれもが迎える「死」を観ることで

たいせつなことに気付くのです。

 

「死」をしっかり見つめれば見つめるほど

「死」は怖れるものではなく

どうやって今「生」を輝かせるのか?

という意識になっていきます。

 

ある老人施設でだれかが亡くなったら・・・

老人ホームで相談員をしていた時

その施設では

誰かが亡くなった ということは

ほかの入居者には極秘でした。

 

全員 居室入って頂き

そのスキに ストレッチャーで玄関まで

さささっと お運びしました。

 

そこへの違和感を言ったことがありますが

「それで不穏になったら 責任とれるの!?」

と 看護師や介護スタッフにわらわら責められて あえなく意見を引っ込めるという始末。
(その施設では ほかのことでも価値観の違いが大きく 看護師たちはめちゃ強く 自分の無力さに涙することも多かった)

 

ある程度 元気な入居者には わかりますよね。

昨日まで 辛そうだった方のお部屋が突然 空き部屋になって

壁紙などを変える業者が入って

見学者が来て

しばらくしたら 新しい人が入ってくるんだもの。

なにも触れないほうが 不安が溜まっていく。

多い時は 週に3人亡くなることもありましたが

わたしが働いていた当時 その施設は毎回 こんな感じでした。

特別不安がる人は別として

誰かが亡くなったことをオープンにし

寂しさや

不安も

表現したほうが

その感情は解放されて 楽になっていく。

 

だから

なかったことに しないで

しっかり向き合えるような

そんな環境を創っていったほうがいい。

 

それは

日本人のほとんどが亡くなっている病院でも

同じことだと思っています。

 

わたしが デスデザインをやっているわけ

デスデザイン・カフェをやっているのは

ネガティブ最上級みたいに扱われている「死」を

ふつうのこと・・・とても大切なふつうのこととして

話したいということ。

 

「死」に着目することを通し

命の終わりや

肉体があることの意味

そしてもっと大きな視点を思い出し

他人の目や常識に張り付いている視点から

一旦 宇宙から俯瞰して人生を見渡し

意識を拡げ

自分の可能性に気付き

今が輝くようになるためです。

 

愛と死

また・・・わたしの中では

「愛」と「死」はセットです。

死について考えていくとそうなるのではないでしょうか?

 

世界で初めて

「死」を医療の現場でスポットライトを当てたと言われる

「死ぬ瞬間」などの著者で精神科医の

エリザベス・キューブラー・ロス博士。

彼女も最晩年 こう言っています。

人生で大事な2つのことは

「愛を与えること」
「愛を受け入れること」

であると。

もっと詳しく書いた記事 →キューブラー・ロスかく死せり

死について考えるということは

深めていくと

今を生きるということであり

愛している

愛されている

という 深い体験をしていくことだと

わたしは 思っています。

 

わたしの場合は

深く愛した体験が

死は怖れるものではないこと
(目の前の身体がなくなっていってしまうことは 寂しいことではあります)

死を超えて

いのち=魂=意識・・・は繋がっているということを感じてきました。

 

死(=限られた時間と空間)があるからこそ

生が美しいのです。

 

死生観のベースになっている考え

わたしの死生観のベースになっているもの(宇宙観)は

たったひとつのもの=大いなるもの=宇宙=神=愛 etc….

が それを味わうために別々の個を産み

そして拡大していっている(拡大したいと思っている それが性質)

ということ。

ビッグバンを別の言い方をしているとも思っています。

 

「死」という区切られたものがなければ「生」もないのです

たったひとつだったところから

時間・空間のあるこの3次元に個別の肉体を持って生きている。

それは たったひとつの愛を味わうため

別々の肉体(個)でなければ味わえない

ひとつではできない

愛し合う(味わう)体験のためだと ということ。

そうすることで 宇宙は拡張していっていると感じるのです。
(それは宇宙自体の願いであると感じます)

 

時間と空間で限られているからこそ味わえるもの。

「死」という 区切られたものがなければ 生もない。

死は忌み嫌うものではなく、死がなければ生もなく

「死」は永遠に続く循環のなかの「門」のようなものであるということ。

宇宙が拡張していくための

=もっと大きな愛を味わうための

リセットのような役割の門であるということ。

 

恋人の自死や人を深く愛することで 感じてきたことです。

 

亡くなって終わりではなく

人の魂は輪廻転生している ということ。
(たとえば 思い出した前世の記憶を事実だったと証明できたということもある)

人の思い=意思=エネルギーは

時空を超えて

影響しあい

大きな愛にむかっていること。

ご縁のある魂はこの地球で学び合い

愛し合うため(時にその反対にしか見えないことも)に何度でも出逢うこと。

 

「死」を観る=宇宙から今を観るということ

今 社会では

人からの評価

傷つくことへの怖れ

常識

それらにとらわれ

苦しくなっている人がたくさんいます。

ほんとうの感情

ほんとうの自分を抑えて生きていると

外側から評価をされていても

自分自身の内面は苦しくなっています。

 

深遠で広大な無限大の宇宙のことを

わたしの脳とことばで表現しきれるものではないけれど

俯瞰した視点を持つこと

全ては繋がっていて

実は この世界は愛でしかないということ

そんなことを知る(魂としては思い出す)ことで

楽になり

命への慈しみが自然にひろがり

より幸せを感じることができるようになります。

 

「死」

わたしが デスデザインカフェをしているのは

「死」に着目することを通し

他人の目や常識に張り付いている視点から

一旦 宇宙から俯瞰して人生を見渡し

意識を拡げ

自分の可能性に気付き

今が輝くようになるためです。

そうすることで

あしたからの選択が変わってきます。

 

死に場所難民47万人についても・・・

死をさまざまな方向から

しっかり見つめることで

怖れではなくなってきます。

 

団塊の世代が75歳以上になるという2025年問題。

2030年には 死に場所難民が47万人とも言われています。

それも 今の死生観から見たことです。

そこに直接取り組むのは 今のわたしの仕事ではありませんが

ネガティブ最上級のような死についての意識を変革していくことで

問題が問題ではなくなっていくと 思っています。

 

ではでは

そんな デスデザイントークをご一緒できるのを

楽しみにしています。

愛をこめて

美喜子


今後の予定

 

 

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